「地球の裏側からこんにちはーブラジル研修報告ー」


第2弾、その4はこちら

このたび、ブラジルで研修中の山口明裕師よりはじめてのレポートが送られてきました。
とても興味深い内容ですので、ぜひお読みいただきたいと思います。長文のため、3部にわけて掲載いたします。



ブラジル研修報告

その1

昨年3月に司祭叙階を受けた後、間もなくしてブラジルへとやって来ました。目的は日本で働き、生活するブラジル人たち(Dekasseguisと呼ばれる)のことをより深く理解し、日本で彼らとともに教会・社会の中で働けるよう、ポルトガル語とブラジルの文化・歴史・習慣を学び、準備するためです。

ブラジルは日本のほぼ真裏に位置し、南米大陸の約半分を占める巨大な連邦共和国で、26の州と1連邦区(首都ブラジリア)から構成されており、日本の約23倍の国土に16000万人の人々が生活しています。サンパウロ州と日本の国土がほぼ同じです。言語は南米大陸で唯一ポルトガル語を国語とし、人口の大部分がカトリック信者です。しかし、近年ではプロテスタントとともにクレンチと呼ばれる新興キリスト教会が、貧困層を中心として勢力を伸ばしています。

ブラジルは1500年にポルトガル人のペドロ・アルヴァレス・カプラールが漂着し、領土確保と資源獲得のための移民活動が始まって以降、多くのポルトガル人と、労働力として黒人奴隷が移り住んで来ました。1807年、ナポレオンから逃れたポルトガル王室がブラジルに避難しますが、国王の帰国後も皇太子はブラジルに留まり、1822年、独立を宣言して初代皇帝ドン・ペドロ1世として即位します。その後、1889年に連邦共和制となりました。奴隷制度は1888年に廃止され、それ以降、それに変わる労働力として各国からの移民受け入れが盛んとなります。

現在、ブラジルの人種構成は、白人系54%、黒人系10%、黄色人系2%、混血34%といわれ、先住民・ポルトガル人、アラビア人、中国人、日本人、そしてそれらの混血など、多くの人種と文化がこの国の中に混在しています。

日本からも、1908年に契約移民781人を乗せた「笠戸丸」が出航して以来、多くの移民者を送り出し、移民船を廃止した1973年までにブラジル日系人数は54590人に達しています(1990年の人文研の調査では1228000人)。そして、以前、1世としてブラジルに渡ったのと同数の人々(彼らの子どもや孫たち)が、今、日本に出稼ぎに渡っているといわれています。統計では、現在、日本で約27万人のブラジル人が生活しています。1999年法務省移民管理統計によると、浦和教区内には現在約4万1000人、内訳は群馬県約13000人(全国第5位、)、埼玉県約11000人(第8位)、茨城県約9000人(第9位)、栃木県約8000人(第11位)がおり、そのうちの約3万6000人がカトリック信者です。

しかし、国籍別で人数が一番多く、また、教区内の日本人信者数よりも多いにもかかわらず、教会として彼らへ対処は遅れているのが現状のようです。原因として、その多くが日系で外見上での区別がつかないこと、多少の日本語を話すことなどが挙げられると思います。

彼ら日系の人々は、労働ビザの取得に際して優遇されています。ブラジルにおいては、その多くが、世代による違いもありますが、日本的文化・習慣を大切にし、生活の中で保持していくように努めています。また、混血を避ける傾向が残っています。日系の多い町々には日本食の材料を売る店がありますし、最近ではNHK衛星放送の普及によって、日本の情報をいち早く知ることができます。年末に私がお世話になった日系3世の家では、大晦日に家族一同で年越しそばを食べながら紅白歌合戦を観、新年の挨拶を済ませた後、お雑煮やおせち料理をつつく習慣を、現在でも続けていました。

移民としてブラジルに渡った人々は、その勤勉さ・誠実さと、特に農業を通してブラジル経済と食生活の改善・発展に大きく貢献しているので、他国出身者から“日本人”と呼ばれて尊敬を受け、また、自らもそれを誇りにしています。しかし、そのような彼らが日本に行くと、言葉や習慣の違いから、自分が“日本人”であることに違和感と疑問を感じ、かといって他の国の人々のようには“外国人”として特別な気遣いや配慮を受けられないという問題に直面します。

結局、彼らは自らの意志とその生活様式をもってどちらかであることを強く主張しない限りは、“ブラジル人”でも“日本人”でもない、両国においてともに “外国人”として、自らのアイデンティティーを喪失してしまいます。

 



その2

また、出稼ぎ者の帰国後の問題があります。これまでに日本から精神病となって帰った幾人かの人と出会いました。家族や友人・知人の中で、そのようになったという人々の話もたくさん聞きました。彼ら日系出稼ぎ者たちは、寝る間も惜しんで働いています。毎日の残業が6時間、その上、休日も返上してきつい仕事に従事していながら、社会保障のない状態にある人が多勢います。会社の人間関係に馴染めず、友人もなく、悩みを相談する相手もないまま、孤独によって病気になる人もいます。また、既婚者が単身で日本に働きに行っている間に、送金したお金とともに妻が消えた、あるいは帰国後すでに家族の心が離れていて、帰る場所がなかったという人にも出会いました。そうでなくても、単身出稼ぎ者の家族崩壊は深刻な問題となっています。

出稼ぎは、数年間の辛抱で、借金を返済し、家を買い、トラックを買い、あるいは店を買って新たな商売を始めるための資金を稼ぐことができますが、他方、そこにはいくつものリスクも伴なっています。

日系社会の中での出稼ぎに対する意見は賛否両論のようで、ある人は出稼ぎに行っても短絡的にお金を得るだけで将来性がないから地道に現状に止まって頑張るべきだ…と言います。しかし、根本的にブラジルには仕事がない、まじめに働くほど損をしていくという構造があります。より富む者が、企業が、政治家が、合法的に、より飢える者たちから搾取をし、さらに、ごく一部の富む国々が、世界経済の安定・発展という名のもとに、彼等に必要なもののをすべて奪っていきます。日本に生きる私自身も、その加担者と言えます。彼らは家族を養い、生活をしていかなければなりません。出稼ぎとはそのために日系人に与えられた一つの手段であり、また、最大の機会なのかもしれない・・・と、最近、考えています。

ブラジルでこれらの状況に直に接していると、今回の研修にも自然に熱が入ってしまいます。

昨年7月初めにブラジルに到着し、年末までの約6ヶ月間はサン・パウロにある神言会修道院に滞在させていただきながら、ポルトガル語の個人授業(月〜金曜日、8:0016:00)を受けました。授業のない週末・祝祭日には、教会の手伝いや買い物、観光、食事に招かれて出かけることもありましたが、滞在期間中、食事と共同の祈り、ミサ、そして睡眠を除くほとんどの時間を、ポルトガル語の学習に費やしていました。

元来の出不精に加え、治安への恐れと、それ以上に、他の国々から集まった勉強仲間たちの語学上達の速さに非常な焦りを感じていたのでしょうか。その結果が、3ヶ月目にして軽いノイローゼ状態になってしまいました。夜は眠れず、机の前では体が震え、とても勉強に集中できる状態ではありません。頭の中では絶えず強迫観念だけが回っています。授業のはじめに、先生からあらかじめ、これまでに宣教師として送られてきた多くの司祭や修道者がそうなり、また、克服してきたことは聞かされていましたが、いざ自分のこととなるとこれが案外辛いもので、「なぜ自分がこんな辛い思いまでして…」という気持ちがどんどん膨らんできます。当初の目的はすでに頭の中にはありません。

ある日、同時期にアイルランドから来ていたシスターが私にこうつぶやきました。「私は昨日、以前学校で教えていた生徒たちにこう書きました。『いつも神様のことを忘れずに、感謝をしなさい』と。しかし今、そのように書いている私自身が神を信じることができません。とても恥ずかしい…」と。思わず共感してしまいました。因みに、彼女はブラジルに宣教者として派遣され、言葉を覚えてこの地で生きていかなければならないというプレッシャーと孤独に、押し潰されそうになっていました。それに比べて私などは、1年と少し先には日本に帰るということがあらかじめ決まっているので、他の人たちと比べてまだ気が楽なほうだったのかもしれません。

というわけで、その後10日間ほどの休みをいただいて日系の町を訪ね歩き、のんびりと疲れを癒してから、再びサン・パウロで勉強を続けました。これは、日系の人々と出会うよい機会となりましたし、また、外国から言葉もわからぬまま日本に来て働き、生活している人々の苦しみと、海外で、あるいは海外から来て働く宣教師たちの苦労を、ほんの僅かばかりですが知ることができたよい機会であったと思います。

そして、昨年のクリスマス以降、あちらこちらと小旅行をしたり、浜辺でブラジルの夏を思いっきり満喫した後(いちおう、研修の一環として)、今年2月からはパラナ州にある小さな町、サン・ジェロニモ・ダ・セラで活動していらっしゃる佐々木治男神父様のお世話になっています。





その3

現在、ブラジルでは、多くの司祭・修道会関係者らが日系人司牧と地域社会への福音宣教に当たっていますが、佐々木神父様もそのお一人で、1958年に日系人のために来伯して以来、ブラジルでの福音宣教に限りない貢献をされており、現在は小教区ノーバ・サンタ・バルバラの主任司祭として、また、フマニタス慈善協会の理事長として、長崎純心聖母会のシスターたちとともに地域住民の医療(ハンセン氏病を含む皮膚科)と貧困者の支援に尽力されています。

サン・ジェロニモ・ダ・セラを含むこの一帯は、バラナ州の中でも特に貧しい地域で慢性的な職不足にあり、MSTMoviment Sem Terra)を中心とする土地解放運動があちらこちらで展開されています。彼らは大地主あるいは大企業が所有する農地改革の対象となる税金未払いの放置された土地を探し出し、占拠して、政府が法に則って没収・分配するよう運動を起こします。彼等は町に家族を残し、あるいは家族とともにキャンプ(木の柱に黒いビニール袋を覆ったもの)を張って生活しますが、しばしば地主や政府機関、警察、雇われた用心棒らによって激しい妨害を受け、ときには命を狙われることもあります。食事は米とフェジョン豆だけで慢性的な栄養不足状態にあり、栄養と空腹を満たせるものは何もありません。彼らは、この先いつ土地を獲得できるのか誰も知らないまま、出エジプト記に示された被抑圧者に対する神の解放と土地の譲与を、運動の根拠、支え、唯一の希望として活動を続けます。それゆえ、指導者たちは聖書に精通しています。

また、多くの町では仕事の絶対量が不足しているため、特に青少年の暴力・犯罪・麻薬の蔓延が深刻な社会問題化しています。若い女性たちは職を求めてポルトガルやスペインへと渡り、そのまま売春婦に身を転じていると言われています。

このような状況の中、フマニタス慈善協会では、その活動の一つとして地域の貧困家庭を調査し、継続的に支援と指導が必要と判断される家庭の子どもたち約80人(6〜18才)を集め、生活支援を行っています。彼らは1日3〜7時間の労働(野菜・果物栽培、食肉ウサギの飼育、手工芸品の作製)による報酬を受け取り、家計を支えています。ときにはそれが家族にとって唯一の収入源である場合もあります。

また、朝食とおやつ、そして週2度の栄養価の高い昼食が提供される場合もあります。日本では食事を摂ることが日常の生活の一部としてごく当たり前のようになされますが、ここでは違います。私はポルトガル語の実践のため、毎日子どもたちの作業に加わりながら生活を共にしますが、彼らがいかに食事時間を心待ちにし、楽しみにしているかを目の当たりにしています、彼らのある者は昼食とおやつに日本人の2日分の量を食べるので、驚きと同時に、もしかしたら胃拡張…?といつも心配しながら、その豪快な食べっぷりを眺めています。逆に言うと、いかに家庭の食事事情が恵まれていないかを物語っています。職員の話では、それまで栄養不足で未発達だった子どもたちが、フマニタスの食事と労働によって日ごとに年齢相応の体格へと成長する様子が目に見えてわかると言います。子どもが本来あるべき姿として心も体も健康に成長するために、食事と労働意欲を満たすことがどれほど大切であるかを初めて理解しました。

ここで出会った子どもたちは皆、純粋・単純で、とても人懐っこく、一生懸命になって私にポルトガル語を教えてくれます。外国に来て一番不安なのは理解できないことへの恐れから相手が離れてしまうことですが、その点、ここの子どもたちは安心です。彼らは18才になるとフマニタスを出なければなりません。それから先、彼らがどのような人生を歩んでいくのかが気掛かりでもあり、興味深くもあります。いずれにせよ、彼らがどこにいても、その幸福を願わずにはいられません。

以上が、これまでの9ヶ月間に私が見た、私が感じたブラジルです。

ブラジルは世界で3番目に経済格差の激しい国と聞いています。また、その国土は桁外れの大きさも持っています。それゆえに、どの階層、どの地域を中心に眺めるかによって、ブラジルの印象は大きく異なってくると思います。しかし、いつもその周辺に深く根を下ろしているのが抑圧と搾取の構造であり、貧困の問題だということを忘れるわけにはいきません。そのように見ると、一般的に開放的で楽天的といわれるブラジル人の国民性は、奴隷制度以来の抑圧と搾取の中で耐え抜くための500年の歴史の中で身につけた唯一の方法だったのかもしれないと、最近、考えるようになりました。

まだまだ書きたいことが山ほどありますが、ひとまずここで筆を休めて、次回の誌面に譲ることといたします。

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                        左から、佐々左木神父、長谷川神父、鈴木神父、山口神父

                    場所:サンジョロニモ(ブラジル、パラナ州)にある佐々木神父の施設(フマニタス)

                     後ろの建物は佐々木神父経営のプロポリス製造工場)、プロポリス注文可



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